オナ禁は世界を救えるのか。

これは自分との戦争だ。

反オナ禁派の論理性 DAY1,DAY2 つづき

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何のために修行僧は苦行を行っているのか。

例えば、断食というものがある。

一般の人からすれば、意味があるのか疑問に思う人もいるであろう。

しかし、彼らはそれを乗り越えた先に、何があるのか知っているから行っている。

 

また、世界にさまざま種類で存在する信者はなぜ、一つの宗教に対して固執するのか。

私は無宗教なので、その考えはわからない。

 

だが、これだけは言える。

修行僧も宗教信者も 信じる ことを行動に起こしているのだ。

信じるという考えは、人間にしかできない行動であり素晴らしい行動だと私は思う。

例えば、自分の友人の身が危険に追いやられたとしよう。

自分が助けに行っても、助かる確率は1%しかなく、自分も危険にさらされてしまう。

他の動物は、自分の身に危険が及ぶのであれば見捨てるだろう。

生物の本能として、それは正しい行動だと思う。

しかし、人間は違う。

見捨てる人もいるだろうが、1%に賭ける人もいる。

1%を信じているのだ。

この信じるという、人間だけが持っている行動

ここに科学・医学が入れる余地はない。

なぜなら、この行動は学問を超えているからである。

なぜ、そのような行動を起こすのか証明できるのであれば、

ぜひ、教えてほしい。きっとできないだろうが。

 

苦行、宗教を行っている人に対して、科学で証明されていないからと言って

馬鹿にする人いるだろうか。

多くの人は、馬鹿にしない。むしろ賞賛する方もいるだろう。

関心がなく自分の話題にでないから、馬鹿にしない人もいるだろうが。

科学で証明されていないことでも人は信じ、称えることがある。

それは、多くの人間が行っているからという理由ではないだろうか。

 

例えば、一つの誤った情報がある。

これをメディアで流せば、多くの方が非難するであろう。

しかし、大多数が指示する偉い方がこの情報を発信した時、

皆が非難するかといえばそうでない。

信じ込む人がいる。大多数が信じ込むのではないだろうか。

この人が言っているから正しい。そう信じるのである。

間違った情報でも時に人間は信じてしまうのである。

故にテレビという情報発信媒体は怖いのだが。。。

そして、皆が信じ共感する。間違った情報でも 正しい と思ってしまう。

皆が正しいと思えば、間違いが 正しい と、なる。

つまり大多数の意見が、基本的に物事の道理になってしまうのだ。

 

苦行、宗教もそれぞれ種類はあれど、大多数の人間が行っているからこそ

道理として現存し続ける。

科学的な根拠よりも、多くの人の同感が、物事を決定づける一番の”決め手”なのだ。

オナ禁に話を戻そう。

オナ禁は科学的に証明されていないし、少数派の意見しかないので

いつも否定され続けている。

しかし、少数派の意見は、確実な物的証拠になる。

故に、本来であれば、もう少し広まってもいいはずなのだが

それを反オナ禁派が現在の科学、大多数の意見で否定する。

だが、現在の科学、医学でも解明されていないことの方が多い。

なのになぜ、ここまで否定するのか。

簡単である。自分がオナニーしたいだけなんだと。

それだけの理由で、不確かな科学的根拠を含ませ否定するのだ。

少数の貴重な意見を無視して、完全否定するのだ。

 

たしかに人間の三大欲求

食欲・睡眠欲・性欲の内の一つを我慢することは辛いことだと思う。

しかし、それを乗り越えて達成した物たちが発信する貴重な意見に対して

耳を傾けないのは、あまりにも愚かではないか。

ただ、性的欲求の肯定化のためだけに否定するのはよくない。

しかし、これだけは断言できる。

オナ禁の重要性、効果が科学で証明されなくとも

大多数がオナ禁に賛同すれば、反オナ禁派も自然とオナ禁してしまうだろう。

上記に記述したように、

大多数の意見が 正しい のだから。    つづく